東日本大震災

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14時46分。その時、ママは大掃除を終えて汗だくになったのでお風呂に入っていた。夢を見ているかと思うほど長く続く横揺れに、なすすべもなく、立ち上がることもできず、ただただ悪夢から目が覚めて欲しいと湯船にしがみつくしかなく。湯船からは大量の湯があふれ出し、外から叫び声が聞こえ、何かが崩れ落ちている音が続き、もうこのままダメかと何度も思った。

揺れがおさまって、びしょびしょの髪のまま洋服を着ようとしたけれど、足が震えてGパンに足が通らない。そんな中余震が続く。少し冷静になって、部屋を見渡すとリビングの被害はさほどでもないが、廊下の本棚の本が飛び出し、ママの部屋のビジネスラックはなぎ倒され壊滅状態。ま、元々散らかってはいるのだが。

まず梅田のおばあちゃん。年季が入っている実家が無傷とは信じがたい。何度も何度も電話するがつながらない。

まりんは学校。学校なら安全と思い、まずは梅田に自転車で向かった。肌寒い3月なのに汗が止まらない。コートを自転車のかごに乗せ走らせてみたが、古い家並みもそのままで大きな被害はないようだ。

おばあちゃんはのんきに洗濯機を回していた。花瓶や線香立ての灰が落下して掃除をした際の大量のぞうきんを洗っていたそうだ。そんな話をしている間にも余震が続く。とりあえず、「うちに避難しようよ。」と説得し、最低限の荷物をまとめて一緒にマンションに戻る。

マンションの駐車場には、住人がまだ避難している。まりんの学校の子達が帰宅していないのを確認し、「これは、お迎えだな−」と判断。メールも受信ができないので、小学校からの連絡メールが届かないのだ。

小学校の校庭には生徒が避難して集まっている。学校近くの古い家が崩壊していると子どもたちが騒いでいた。泣いている子もいたけど、まりんは元気だった。

パパと連絡が付いた。パパは打ち合わせで飯田橋方面にいたらしいのだが、すぐタクシーがつかまったので打ち合わせ場所に寄って断りを入れてから、自宅に向かったそうだ。まだ渋滞前のラッキーな時刻だった。三ノ輪あたりでそろそろ電車が動いているかとタクシーを降りたら、まったく復旧のめどがたたず、歩いて自宅まで戻ってきた。

みんな無事で良かった。

ガスも復旧した。停電もなかった。

東北で起きている状況をニュースで見ながら、恵まれた環境に感謝した。あんな大きな揺れは人生の中で初めてだったけど、もうあたたかいおにぎりを食べられていることに、あたたかいお風呂に入れることに、ふかふかのお布団に寝られることに、そして家族みんな一緒でいられることに、ただただ感謝。感謝せねばなりません。

犠牲になられた方々、ご遺族の皆様、 深くお悔やみ申し上げます。

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このページは、mamaが2011年3月11日 23:44に書いたブログ記事です。

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